運転免許証の本質

こんばんは。夫です。

 

私の運転免許証はオートマ(AT限定)です。
大学2年生の時に、親にお金を出してもらって近所の自動車教習所で取得をしました。

ちなみに、自動車教習所の略し方は地域によって違うようなんですよ。
東京の人は比較的シンプルに「教習所」と呼ぶことが多いようですが、私はかつて名古屋に住んでおり、そこでは「車校」と呼ぶのが普通だったように思います。
北陸地方に住んでいた人は「車学」、あるいはなんとか地方に住んでいた人は「自車校」などなど…
そんなに地域色が出るような施設ではないような気がしますが、言葉というものは不思議なものなのですね。

話を戻しますと、

私の免許はオートマ限定であり、取得にかかる費用は学校通いで25万円くらいだったと思います。
マニュアルの場合は、同じく通いで30万円前後、オートマと比較して数万円の追加費用で取得が可能だったと思います。


オートマ車マニュアル車の違いは以下のとおりだと考えています。

 

・マニュアルの方が乗れる車の種類が多い(マニュアルはオートマを包含してる)

 

・同じ車種でもオートマとマニュアルではマニュアル車の方が若干安い

 

オートマ車の操作はアクセル・ブレーキ・ハンドルで完結し、ほぼゴーカートの延長のような乗り物であることに対して、
 マニュアル車はギアをガチャガチャと操作して運転するため、いかにも駆動装置を「操縦」している感じがしてカッコイイ


これらの点を踏まえると、どうせ免許を取得するなら、追加の数万円を支払ってでもマニュアル免許を選択する意義があるように思います。


しかしながら私は理由があってオートマを選択しました。


理由は以下の一点です。

 

・マニュアル免許を取得する者はオートマをダサいと思っている見栄っ張りであり、免許の本質を理解していない


日本で販売されている車種のほぼすべてはオートマ車で、マニュアル車を運転する機会は極めて限られています。
それにも関わらず、「マニュアル免許がなんかいい気がする」あるいは「男たるものカンタンなオートマ限定じゃイカン」といった動機でマニュアル免許を選択することは、「公道で自動車を運転する許可証」という運転免許証の本質的な機能とは離れた無思考な選択であると考えたため、私にはできなかったのです。
免許の取得費用と活用度合いの費用対効果を見ればオートマ一択であり、マニュアル免許はオートマ限定を見下すためだけに取るものだと思ったのです。

つまり、マニュアル免許証は、見栄っぱりであることの証明書であると考え、

「僕はちがうんだぞ」と思い、オートマ限定免許を取得したのです。

 


これが大学2年生の時。
私も年を重ね、自分の来た道を振り返ってみると、当時の自分は若かったと思うこともあります。

 


今にして思うのです。
「そのように言い張ってオートマを取るという行為が一番恥ずかしい」と。

 


オートマ免許はオートマ車限定で十分と思う人のための免許であり、マニュアル免許の対抗馬としての役割はありません。
少しでもマニュアル車に乗る可能性があると考えたならばマニュアル免許を取得するべきであり、マニュアル免許を取得した事実をもってその人の人格を否定する理屈は何もありません。

長い人生、自分の意志とは関係なくマニュアル車しか用意されない場面があるかもしれないし、最近ではそもそも私自身がマニュアル車を運転してみたいという気持ちもわずかですが出てきました。

 

しかし私はオートマ限定の免許であるため、限定を解除するには10万円程度のお金と教習所に通う時間を作らなければなりません。
過去に自分が選択したオートマ限定の表示を消すためにお金と時間を費やすことは、贖宥状(免罪符)を購入することにほかなりません。
限定解除したという履歴はもちろん周りからは分からないですが、自分の中では恥の上塗りという感じです。

 

なので、私は自分の過去の過ちを認め、オートマ限定を選択してしまったことを隠すようなことはせずに、これからも堂々とオートマ人生を歩んでいこうと思います。